ブログです。
いつでも同じ所に行きつくわけじゃないところが興味深い永遠の命題(まあもう殆ど心ないわたしなりの赤受咸青だから当たり前か)。
現代文の授業中に閃いた! なのだよ。
えと多分長くなるから畳む。
というか書き途中に、『あれ、コレ前も言わなかったか?』と思ってしまった。
現代文の授業中に閃いた! なのだよ。
えと多分長くなるから畳む。
というか書き途中に、『あれ、コレ前も言わなかったか?』と思ってしまった。
まずあらすじ、現代文の授業中につまらんエッセイと先生のそれについての話し拡げを読んで聞いていて、ふと「ああ入間さんだったらこんなじゃなくてもっとこうでこうだよなー」といった具合にぽーっとしてしまった。ここまであらすじ。
そして閃いた。
わたしは、『入間人間の小説のファン』って、厳密にはすごーく少ないんじゃないかと思っています。厳密にっていうのは『入間人間の小説のみ好きなファン』って意味です。
入間人間は、別の場合でいう『決定的なその言葉ひとつ』があんまりないんです。全体でうすらぼんやり伝える感じ。
それはなんだか自然に分かっているだけ、って感じ。
だから本への印象じゃなく、作者への印象になりやすい気がするんです。
たとえば「実は○○で××だ」って感じに事実を言葉にして織り交ぜてしまうならそんなに難しくないし、自然体でそう思っていなくたって出来てしまう。
それでも、小説家としてならすごいし、いいと思います。「この本好きだな」って思わせられる。
(たとえばわたしは、杉田光や成田良悟の私が読んだことある作品なんかにそんなイメージ持ってます)
でも入間人間は『実は○○で××』っていうことを「あ、この人当たり前に知ってる」って思わせることが出来てしまう。
自然体だから。自然体でいようとしているところもあるけど。でも多分本当に当たり前に知ってるんじゃないかと思います。
だから『実は○○で××』を身近に持つ人間なんかを中心に、「この人好きだな」って思わせてしまう。
なんていうか私個人の感覚だけど、気管支付近がきゅううってなる。
自然にそのまま、根底のただの考えにさらっと優しくされた気がして(道案内されるとか癒されるとかそういうのも)、たまらなくうれしくてせつなくて、感極まって抱きつきたくなる。どうしてもどうしても愛してしまう。
とか言っているけどまあ、入間作品でもハッキリ言葉にして混ぜたり台詞にしたりっていう、ハイライト的なあれはありますよね。最低限なのかよくわからないですが。
ただ、あんまりそれに頼らずうすらぼんやり伝えるというのが特に濃い作品もあります。
その最たるものが『探偵・花咲太郎』のシリーズだってわたし思うのです。
『はっきりは言わないけど、ほら、わかるよ。わかるってわかるでしょう』
と幻聴が聞こえる危ない人にしたてあげるんですわたしを。くっ、卑怯なっ。
言葉って壊れやすいんです。
ああ『すぱっと表現してしまう』のも場合によっては最善だと思います。
けど小説なんかではっきりとは言わないでうすぼんやりそっと伝えるときは、伝わったときやわらかすぎずやわらかくて、ほどよいあたたかさ/つめたさの人肌を感じる。
そして受け取ったとき、私なんかだとその感覚に酩酊してしまう。目の中が静電気発生のときみたくバチッっていう。
言葉だけ届くんじゃなく声が聞こえる距離、みたいな。
段々分析じゃなくてラブレターになってきてはずかしいのでこの辺でとりあえず打ち切りますが、最後に
それって花太郎が桃姫様にしているイチバン素敵なことに近くないですか?
(あるいは木曽川が友達づきあいの中でなんとなく期待してることにも近いかも)
そして閃いた。
わたしは、『入間人間の小説のファン』って、厳密にはすごーく少ないんじゃないかと思っています。厳密にっていうのは『入間人間の小説のみ好きなファン』って意味です。
入間人間は、別の場合でいう『決定的なその言葉ひとつ』があんまりないんです。全体でうすらぼんやり伝える感じ。
それはなんだか自然に分かっているだけ、って感じ。
だから本への印象じゃなく、作者への印象になりやすい気がするんです。
たとえば「実は○○で××だ」って感じに事実を言葉にして織り交ぜてしまうならそんなに難しくないし、自然体でそう思っていなくたって出来てしまう。
それでも、小説家としてならすごいし、いいと思います。「この本好きだな」って思わせられる。
(たとえばわたしは、杉田光や成田良悟の私が読んだことある作品なんかにそんなイメージ持ってます)
でも入間人間は『実は○○で××』っていうことを「あ、この人当たり前に知ってる」って思わせることが出来てしまう。
自然体だから。自然体でいようとしているところもあるけど。でも多分本当に当たり前に知ってるんじゃないかと思います。
だから『実は○○で××』を身近に持つ人間なんかを中心に、「この人好きだな」って思わせてしまう。
なんていうか私個人の感覚だけど、気管支付近がきゅううってなる。
自然にそのまま、根底のただの考えにさらっと優しくされた気がして(道案内されるとか癒されるとかそういうのも)、たまらなくうれしくてせつなくて、感極まって抱きつきたくなる。どうしてもどうしても愛してしまう。
とか言っているけどまあ、入間作品でもハッキリ言葉にして混ぜたり台詞にしたりっていう、ハイライト的なあれはありますよね。最低限なのかよくわからないですが。
ただ、あんまりそれに頼らずうすらぼんやり伝えるというのが特に濃い作品もあります。
その最たるものが『探偵・花咲太郎』のシリーズだってわたし思うのです。
『はっきりは言わないけど、ほら、わかるよ。わかるってわかるでしょう』
と幻聴が聞こえる危ない人にしたてあげるんですわたしを。くっ、卑怯なっ。
言葉って壊れやすいんです。
ああ『すぱっと表現してしまう』のも場合によっては最善だと思います。
けど小説なんかではっきりとは言わないでうすぼんやりそっと伝えるときは、伝わったときやわらかすぎずやわらかくて、ほどよいあたたかさ/つめたさの人肌を感じる。
そして受け取ったとき、私なんかだとその感覚に酩酊してしまう。目の中が静電気発生のときみたくバチッっていう。
言葉だけ届くんじゃなく声が聞こえる距離、みたいな。
段々分析じゃなくてラブレターになってきてはずかしいのでこの辺でとりあえず打ち切りますが、最後に
それって花太郎が桃姫様にしているイチバン素敵なことに近くないですか?
(あるいは木曽川が友達づきあいの中でなんとなく期待してることにも近いかも)
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案内
途中までサイトの1コーナー扱いでしたが途中でブログ独立宣言。2011年1月9日、カウンターつけてみました。
いやなおんな(index)関係の更新履歴でもあるが、感想とかのブログでもある(たぶん)し他にも気が向けば書く。二次創作なカプ厨。
実情ほぼ入間人間のファンブログみたいな感じでしたが、とある事情により離れていく予定。(過去作品は別腹かもしれない)
くりえいたーさんや実在しない人に、『自分だけしっくり来ればいい』精神であだ名をつけることが多い。直接関わらないと逆に気安い呼び方の方が距離が遠く感じるような、作品越しとかだと近しく感じるような、そんな感じ。
しかしわかりづらいあだ名が多い(ひどい)。
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HN:
Jane Na Doe(片手羽)
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性別:
女性
自己紹介:
片手羽の下の名前はいえなです。Twitterまとめ記事等ではしょっちゅう出ていましたが、
こちらやサイトで補足するのを忘れていました(~2011年9月19日迄)。
こちらやサイトで補足するのを忘れていました(~2011年9月19日迄)。
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